渋沢栄一の世界 第3回 私と「栄一の世界」
多彩多様な業績を残して、昭和6年、栄一は91才の高齢で亡くなりました。
盛大な葬儀の喪主を務めた孫の敬三は、谷中の墓地で、栄一の柩が土をかぶってゆくのを見ながら、祖父の波瀾万丈の生涯を想い、自分たちの世代はそのような経験をすることはないだろうと思ったと云うことです。
まさか10年後に日本が米国に戦争を仕掛け、14年後には敗戦、栄一の世代が懸命に築いてきたこの国が壊滅するとは、どんな想像力を巡らしても、予想することが出来なかったと述懐しておりました。
しかもその敬三には、終戦の年の10月、再三の謝絶にも拘わらず幣原内閣の大蔵大臣に就任し、占領下の困難な状況の中で、荒廃した日本経済の立て直しに尽力を強いられるという過酷な運命が待っていました。
私事で恐縮ですが、その同じ年の秋、陸軍から復員して大学に戻った私は、日本の将来に絶望し、空しい思いで日々を過ごしておりました。会社で仕事をするようになっても、栄一に代表される戦前の日本への不信感は消えませんでした。
その私が渋沢栄一の世界に、多少とも興味を持ち始めたのは、父の敬三の人生の上に広がっているその影の大きさを意識してからでした。
「文句なしに大変な人だった。自分は少しでもおじいさんに近づきたいと思っている。」と父らしくない言い方をよくしていました。大正時代に育った敬三は、家長であるから、偉い人だからといって栄一を崇拝するような人ではありませんでした。
その父がそれほどの思い込み持つのには、それだけの理由があるに違いないと思い、私もその理由を知りたいと考えるようになりました。
その父も亡くなり、私が40才を過ぎた頃、吉田国際教育基金と読売新聞社から、渋沢栄一を中心とする国民外交の歩みについて本を書いてみないかというお話がありました。
ちょうど米国に旅行する直前のことだったので、現地でいろいろな史料を買い集め、帰国後は70巻にも及ぶ「渋沢栄一伝記資料」を手当たり次第に読みあさってみました。
その過程で、明治大正昭和にわたる複雑な歴史の動きと、その渦中にあって、持ち前の熱意と誠意のすべてを懸けて努力する晩年の栄一の姿が、かなり緊迫し、充実したドラマとして浮き彫りにされてくるようになりました。 |

70巻におよぶ渋沢栄一伝記資料 |
晩年と云っても、60才から91才まで30年にわたる息の長いドラマです。登場人物も、孫文や袁世凱、ルーズベルトからウィルソン、当時の世界経済を仕切っていた米国の企業家たち、日本側からも伊藤博文や大隈重信、栄一の仲間としてこの国の近代化を牽引してきた多くの財界人など、数え切れない人々が、アジア太平洋の歴史という壮大な舞台で活躍するのです。
結果からいえば勿論このドラマは悲劇でした。如何なる人の努力も巨大な運命の流れを変えることは出来ません。栄一が亡くなった昭和6年を境として、日本は加速度的に無謀な戦争にのめり込んでいくこととなりました。それは当時の世界が抱えていた多くの矛盾と、近代日本が陥っていた数々の誤謬と偏向に起因するもので、栄一の努力の限界は、とりもなおさず日本の限界、明治の近代化の限界に繋がっていたように思われました。
しかし、そうしたプロセスを探る作業を通じて、私にもようやく「栄一の世界」の特質や輪郭が、多少とも見えるようになりました。そこで最後に、私の目に映った栄一の世界の風景について、幾つかの点を申し上げたいと思います。
非常に印象的なのは、事に当たってのねばり強さです。官尊民卑打破の実現を、生涯懸けて思い続けてきたこと、そして一橋大学であれ、業界団体の育成であれ、そのために必要と思うことは、30年、40年と、相手が根負けしてしまうほどの時間を掛けて、結局実現してしまう、その持続的な精神力には驚くべきものがありました。
またその反面で、状況に応じて迂回したり、別の方向から攻めたりする柔軟性も際立っていました。当初反対したという女子教育についても、晩年には女性こそが市民社会の基盤であると考えて、卒業する女子大生に、積極的な社会参加を懇願したりしています。
昭和5年、ご陪食と称して、昭和天皇と差し向かいで昼食を共にする機会がありました。問われるままに長い人生を振り返り、特に慶応3年にフランスで見たナポレオン3世の姿やその後の失脚についてご説明したと云うことです。天皇制の存続が必ずしも保証されてはいないことを示唆し、やんわりと忠告を申上げたのかと思います。豊富な話題を自在に操って、相手の心に語りかける話術も、栄一の世界の特質の一つだったかと思います。

読書する渋沢栄一 |
最後に、晩年に向かっての人間としての完成度の問題があります。
未熟な私には過ぎた課題なので、父敬三の言葉を借りてご説明したいと思います。
85才を超える頃から、栄一には独特の風格が備わってきたというのです。
70代の栄一はまだ多量のエネルギーを残していて、学生の父を連れて食事に行き、
穴子の天ぷらを平らげたり、血の滴るようなステーキをほおばったりしていました。 |
表面的には温厚で、いつも笑顔を浮かべていましたが、それでも人に注意したり何かを頼んだりするときには、自分の意図を相手に伝えずには置かないと云う強い意思がひしひしと迫ってくるのを感じたと云う事です。
ところが父が3年余りの海外勤務を終わって、大正末期に帰国したときには、そうした圧力がいつの間にか消えてしまったような気がしたと云っています。
なにかを頼まれなくても、こちらから察してそれをしなければならないような気持ちに、無理でなく、自然にさせられてしまう。それはきわめて自然ににじみ出るようで、栄一の周囲には何の摩擦もいらだちもなく、いつの間にか物事が進行してゆくように見えたと云うことです。
「透き通った感じとも云えましょうか、祖父から発散されていたグレアーといおうか、世間的といおうか、そう言うものが消え失せて、却って本当の人間という感じが深く起こってきました。」と父は書き残しています。
以上「渋沢栄一の世界」を探って、思いつくままをお話しましたが、なにぶん私にとっては対象が大きすぎるので、内心忸怩たるものがありますが、とりあえずこれで終わらせて頂きたいと思います。
2006年10月18日に行われたJKSKサロンでのスピーチ原稿を元にしています
写真はすべて渋沢史料館所蔵 |