English Site  
 


100名山 馬越恵美子(No.25、掲載年月日:2016年4月7日)

プロフィール:馬越恵美子(まごしえみこ)

桜美林大学経済経営学系教授・異文化経営学会会長・(株)日立物流取締役・アクサ生命保険株式会社取締役。
上智大学外国語学部フランス語学科卒、慶應義塾大学大学院修了。経済学修士。博士(学術)。同時通訳、東京純心女子大学教授、NHKラジオ講師、東京都労働委員会公益委員等を経て、現職。『ダイバーシティ・マネジメントと異文化経営』(新評論)『異文化経営論の展開』(学文社)『NHKビジネス英会話・土曜サロン・ベストセレクション・プレミアム』(DHC)など著書多数。
専門分野は「異文化経営論」と「ダイバーシティ・マネジメント」。最近は、「女性のリーダーシップ」「コーポレート・ガバナンス」「グローバル人財」などについても研究と実践を行っている。講演や執筆のほか、英語落語、ジャズボーカルなど幅広く活動し、“えみりん先生”として親しまれている。
ホームページhttp://www.emagoshi.com

今、思うこと:ポジティブにマルチに生きる人生は面白い

馬越恵美子

 専業主婦、同時通訳、NHKラジオ講師、大学教授、学会会長、上場企業取締役・・・なんとも欲張りに生きてきたものである。しかし、20代のはじめ、このような人生になろうとは、思ってもいなかった。大学4年のときには“玉の輿”願望が強く、せっせとお見合いパーティに通ったものである。つまり、裕福な家の、性格のいいおぼっちゃまと結婚して、安定した生活をすること、これが当時の私の目標であった。父の“脛(すね)かじり”を止めてあらたな“脛”を見つけなければ、と本気で思っていた。それでは幼少のころからお姫様願望だったかというと、そうではなかった。

世界を目指した10代の私

 小さいころはかなりおませで、小学校1年のときにはすでに、英語を勉強して世界に飛び出そうと真剣に考え始めていた。その頃の私の世界はアメリカであった。アメリカに対しての憧れは相当なもので、アメリカに渡りさえすれば、英語がペラペラになりさえすれば、何かいいことあるに違いない、と信じ切っていた。
 幸い、通っていた私立の小学校では英語の授業があり、さらに親に頼んで、家庭教師もつけてもらった。中学に入ると、アメリカの高校に留学した経験のある従姉に毎週、英語を習うという絶好の機会をもらい、ますます学習意欲が高まった。そして、高校3年のときに、念願のアメリカ留学の機会をものにしたのである。1970年8月、羽田空港から万歳三唱の声に送られて、120余名の高校生がチャーター機でアメリカに旅立った。その日の光景は今でも目に焼き付いている。スタンフォード大学での1週間のオリエンテーションを経て、それぞれが全米各地に分かれていった。私はアメリカ中西部のミネソタ州のミネアポリスに飛行機とバスを乗り継いで行ったが、その道中、大変心細かったことを覚えている。バスを降りると、ホストファミリーが迎えに来てくれていて、暖かく迎えてくれた。その後、ホストシスターと折が合わず、泣く泣く、他のファミリーに移ったが、そのときの悔しさは忘れられない。彼女が悪いというのではなく、自分が自分の意見をきちんと言うことができず、自己弁護ができなかったことが悔しかった。その後、いろいろなことがあったが、総じて、アメリカのハイスクールライフを楽しんで、身も心も一回りも二回りも大きくなって、帰国した。

フランスで別の世界を知る大学時代

 アメリカの次はフランスへ行きたい、と思った私は、大学ではフランス語を専攻し、ロータリー財団の奨学金をいただき、大学3年時をフランスで過ごすこととなった。行き先はパリから西へ数時間のアンジェというロワール川流域の小都市であった。アメリカ人と違い、すぐには心を開かないフランス人の社会に溶け込むのには時間がかかったが、数十年たった今でも家族同様につきあっているフランス人の数はアメリカ人の友人に引けをとらない。さて、アンジェの町では下宿をして、大学のフランス語の授業に通ったが、地方都市は退屈で、もともと大都市が大好きなシティガ―ルの私には耐えがたく、夏休み後にはパリのソルボンヌ大学に移った。ただ、パリという町はよそ者に対してさらに冷たく、当時はオイルショックで暖房も止められ、日本からの郵便も一時ストップし、文字通り、暗い日々を送って、体重もどんどん減った。それでも、歴史あるパリの街は魅力的で、セーヌ川のほとりを散歩したり、ノートルダム寺院の周辺を歩いたり、カフェのテラスでコーヒーを飲んだりして、すっかりパリジェンヌになった気分であった。休みのときはヨーロッパ各地を旅し、見聞を広めた。こうして、フランス語も身について、日本に帰国したのだが、さて自分は何をしたらいいのか、次の目標を見いだすことができなかった。

才能を活かすと不幸になる?

 当時も女子大生にも就職活動なるものはあった。ただ、ほとんどが大企業に就職し、アシスタントのような仕事に就いて、職場でいい人と巡り会い、数年後に寿退社する、というキャリアパス(笑)であった。そこで、英語とフランス語が達者なクラスメート数人で、大学の就職担当者を訪ね、語学を活かす仕事はないものか、尋ねてみた。すると、その担当者はこう答えたのである。「君たちねえ、女性が才能を活かして仕事をしようなどと考えると不幸になるよ」。一瞬、耳を疑い、ちょっと反発心も芽生えたが、でも、結構これは当たっているかもしれない、そう言えば、親もそう言っていたかもしれない、と妙に納得してしまったのである。そこで、私はそれなら、就職しなくとも大学4年生のうちにいい人を見つけたら、その方が早く目標を達成できる、と思い、就活の代わりに婚活をはじめたのである。かなり合理的な判断だと言えるかもしれない。こうして、すっかりキャリア願望を失くした私は、玉の輿願望へと変身し、せっせとお見合いパーティに顔を出すようになった。でも結局、相手を見つけることはできず、卒業式を迎え、4月になってもやることもなく自宅でゴロゴロしていた。そして、たまたま1週間だけやることになった見本市でのアルバイトで中小企業の経営者の長男と知り合い、結婚することになった。

束の間の専業主婦から同時通訳へ

 夫は誠実で暖かく、将来、素晴らしい経営者になるだろうと言われていた。ただ、専業主婦として家にいるとあまりにも退屈でいたたまれなくなり、簡単な通訳の仕事をはじめることになった。そこで出会った先輩の手ほどきを受け、同時通訳の道に入った。これはなかなかスリリングで面白く、男女平等、むしろ女性優位で、実力主義で、やればやるほど技能も身につき、収入も増え、私はのめり込んでいった。休みには夫と一緒に日本内外を旅行し、仕事の帰りには六本木で待ち合わせて食事をして、遅くまで遊んで帰るなど、夫婦二人だけの生活を満喫した。ただ、次第に周囲から、子供はまだできないのか、というプレッシャーがかかるようになり、さすがに自分自身も30歳の誕生日には、仕事帰りに同僚とお茶を飲みながら、このまま、子供ができなかったらどうなるだろう、と弱音を吐いたことを覚えている。

そして、二児の母に・・そこから思わぬ展開に

 天の恵みか、30歳のときに妊娠し、長男を出産した。数か月後には仕事に復帰した。その後、次男を出産。仕事に復帰し、母に手伝ってもらいながら、育児と仕事をこなしていた。そのような折、母がくも膜下出血で倒れ、半身不随に。さらに夫が体調不良で会社を休みがちに。検査の結果、末期の癌であることが判明。余命3カ月と宣告された。その日は雨が降っていて、私は運転して病院から家に向かっていたのだが、涙で外が見えない。このまま蒸発してしまいたいと思ったほどである。その足で、息子たちを保育園に迎えに行ったが、当時、4歳と2歳の息子たちのあどけない姿を見て、胸が張り裂けそうになった。
夫は1年近く延命し、他界したときは、息子たちは5歳と3歳になっていた。私は1年の看病で、体は痩せこけ、心も萎んで、笑うことを忘れていた。

救ってくれたアメリカのポジティブシンキング

 その後、1年あまり、子供たちの手前、泣くこともできず、悶々と過ごしていたが、アメリカの妹(二番目のファミリーのホストシスター)がとにかくアメリカに来なさい、と言ってくれて、私は幼い息子たちを連れて、夏休みに渡米した。アメリカでは高校のクラスメートが次々と遊びに来てくれ、励ましてくれた。「エミは前に来た時はひとりだったけど、今回は子供二人と一緒だね。仕事もあるし。これはプラスじゃない?」。自分は夫が亡くなったことですべてを失ったように思っていたが、そうではなく、むしろ差引きプラスだ、と言うのだ。コップに半分しか残っていない、のではなく、半分も残っている、というポジティブ思考に励まされて、まだまだ人生は捨てたものじゃない、と思えるようになった。この渡米をきっかけに、気持ちを切り替えることができ、前向きの気持ちで帰国することができた。

通訳から、大学院入学へ

 それからの自分はどんどん前に出て行ったので、人生も急展開しはじめた。まず、社長夫人の座は失ったけど、それなら社長になってしまえ、とばかり株式会社を興した。次に、通訳の仕事もいいけど、大学教授の方がかっこいいのでは、と思い、それには大学院で学位を取らなくては、と考え、大学院に入学した。ちょうど、次男が小学校1年生になったときである。経済学を勉強し、修士号を取得。その後、さらに博士課程に進学。異文化経営論で学位を取りたいと思い、指導教授のいる東亜大学で博士号を授与された。その間、運良く、八王子にある女子大学に就職し、晴れて助教授となった。また、はじめて本を出版することもできた。自分がポジティブになり、志をもち、アンテナを立てると、いろいろな手が差し伸べられて道が開かれる、ということを実感した。

ラジオという未知の世界へ

 たまたまある席上で隣に座っていた方から、NHKのラジオ講座の講師を探していて、急を要する、ということで、考える暇もなく承諾し、早速、テキスト作成と番組の収録をすることになった。これは杉田敏先生の人気番組の土曜版で「土曜サロン」という名称であった。自分の書いたエッセイや新聞の記事をもとに、アメリカ人やイギリス人の相棒とディスカッションをする、という大人向けの英語の番組であった。テキストの作成には膨大な時間がかかり、難儀したが、番組の収録は大変楽しく、ディレクターの懇親丁寧な指導のもと、無事に進んだ。これをきっかけにいくつかの番組に出るようになり、足かけ7年くらい、ラジオの仕事に関わった。貴重な経験である。全国にリスナーがいるので、今も講演に呼ばれるくらいである。ラジオはテレビと違って、長期間、熱心に聞いて下さるリスナーが多くあり、その方々との交流は今も続いている。顔は知られていないが、声は知られていたので、あるときなどは、電話の声で、名前を当てられてしまったこともあるし、九州に出張したときに、タクシーの運転手さんに「ひょっとして馬越先生ですか?」と聞かれて、びっくりしたことがある。人の声というのは、一度覚えると忘れられないもののようだ。ありがたいことである。

学会設立から上場企業役員へ

 その後、アメリカの9.11をきっかけに、自分にできることはないかと自問した結果、異文化経営学会を立ち上げることに。当時、30人だったが、現在は400人以上の会員がおり、定期的に活動を行っている。さらに、現在の大学で教授職を得て、また、その後、東京都の労働委員会で公益委員として労使紛争の行政救済にもかかわり、さらに最近では、東証一部上場企業やフランス系企業の取締役にも就任し、活動の場はますます広がっている。自分でも驚くような展開で、20代のころ、自分が想定した人生とはかけ離れた日々を送っている。プライベートの面でも11年前に今の夫と再会し、再婚した。実は彼はアメリカ留学の仲間であり、それから別々の人生を歩んでいたが、共に伴侶を亡くしている。彼も実に人柄のいい人で、私たちは夫婦というより、親友のような関係である。

人生に感謝

 このように書くと、その後の人生は順風満帆のように思われるかもしれないが、けっしてそうではない。ひとり親の子育ての苦労や仕事での格闘など、どれほどの涙を流したことか。ただ、人生に光と影があり、マイナスに見えがちな影の部分も、実は成長の糧として大変重要な役割があるということに気づくようになった。そうするとすべてが感謝で受け止められるようになる。
 最近では、英語落語やジャズボーカルにも挑戦しているが、エンターテイメントで心がけていることは、そこに集う方々に楽しんでいただき、元気になっていただきたい、ということである。自分がうまくパフォーマンスをしようなどとは思わない。なぜなら、主体は自分ではなく相手だから。様々な経験を通して、自分ではなく、まず相手を中心に、相手の幸せを一番に、と少しでも思えるようになったことが、とっても嬉しい。そう思えるようになると、自分の心も不思議と穏やかになり、幸せに満ちてくるから不思議である。
 最近の楽しみは、寸暇を惜しんで孫たちと遊ぶことである。彼らの住むこの地球、これからの社会、それはどうなっていくのだろうか。そこに思いを馳せるとき、かけがえない地球を大切にし、家族を慈しみ、日々を感謝で精いっぱい生きることが、何よりも大切に思えてくる。これからも命尽きるまで、一瞬一瞬、輝いて、ご縁のある方々すべてを包み込む大きな愛をもった人に、成長し続けたい。心からの感謝とともに。

 



 
▲このページのトップへ 
2014-2016©JKSK All Rights Reserved.