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I. バブル期の来日、『Tokyo Classified』創刊へ
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―お二人はご夫婦で一緒に雑誌を発行されていて、スタッフには、あたかもミニ国連のように、様
々な国籍の方がいらっしゃいます。ダイバーシティとインクルージョンの本当の意味、そしてグローバルなコミュニティにおける働き方について、その本質を教
えていただければと思っています。最初に、クリスクロスをどのようにして始めたか教えていただけますか。なぜクリスクロスというユニークな社名にしたの
か、どうして日本を選んだのかも教えてください。
マーク: 私たちは二人ともスコットランドでエンジニアリングを勉強しました。
メリー: 大学で初日に知り合ったのです。マークが16歳で私は17歳でした。二人ともとても若かったわけです。二人とも自己主張が強かったので、当然、最初に出会った頃はたくさん言い合いをしました。
マーク: 卒業後、メリーはアンダーセン・コンサルティングに就職してロンドンに行きましたが、私は自分が何をしたいかよくわらなかったので、一年間の休暇をとって日本に来ました。日本に住んだ経験が仕事に有利になるだろうと思ったのです。
メリー: 当時はそれが格好良いことでした。日本は世界のトップでしたから。
―おいくつでしたか?20歳位ですか?
メリー: 22歳だったと思います。
マーク:
日本はバブル景気で、とっても魅力的な国でした。英国のメディアでは、「日本が世界をリードする」などと常に日本のことが記事になっていました。今、中国
が似たような注目を集めていますね。日本では、英語を教えたり、編集をやったり、いくつか他の仕事もしました。一年後、メリーが会社を辞めて日本に来たの
です。
メリー:
私は1ヶ月のバケーションで初来日し、着いたらすぐに日本を好きになりました。そしてロンドンに戻り、1ヶ月後に退職願いを提出しました。2、3ヶ月後に
またマークを頼って再来日。幸運にも、東京でもアンダーセン・コンサルティングで働くことができました。その後アンダーセンで担当していた金融機関から引
き抜かれ数年間働いた後、他の大きな金融会社に転職をしようとしましたが、結局ダメでした。その頃、マークはジャーディン・フレミング証券で働いていまし
た。ちょうど、バブルがはじけたすぐ後の頃で、状況は厳しくなってきていました。
マーク:
日本で失業するのは非常に厳しい。物価が高いですし、サポートを受けるには本国から遠く離れすぎていますから。ある日、バーで『Tokyo
Classified』という新しい雑誌を始めるという人に出会いました。私は面白いプロジェクトだと思ったので、彼にメリーを雇ってもらおうと思いまし
た。
メリー: その人は金融会社の上層部の人で「外国人がお互いに連絡を取り合えるように個人広告の雑誌を発行する」という素晴らしいアイディアをもっていました。彼はその新しいビジネスに投資をして、彼の代わりにビジネスを立ち上げ、実際に経営してくれる人を捜していました。
マーク:
数週間後、私たち3人で会って、一緒にプロジェクトをやることが決まりました。クリスクロスという名前は彼が選んだのですが、特に深く考えた名前ではあり
ませんでした。香港に行って、リストからクリスクロスという名前の会社を買収してきたのです。私たちにとって当時問題だったのは、クリスクロスという名前
のラップグループがいたことです。彼らは「♪クリスクロス、さ〜ジャンプしたくなるよ」という歌を歌っていました。
メリー: 香港から私たちのパートナーが戻って来て、クリスクロスという名の会社を買収したと聞いた時、私たちはその歌のことしか思いつかなくて、これはまずいと思いました。社名を言うたびに人々は「ジャンプ!ジャンプ!」って言うだろうと思ったのです。
マーク: 私たちはその名前はあまり好きではなかったので、長い間使用しませんでした。
メリー: でも、不思議な事に、時間がたつと、私たちのビジネスは人と人を結びつけるビジネスですから、クリスクロス(交差する、縦横に動くという意味がある)というのは、実は、まさに相応しい名前だということに気が付いたのです。
マーク:
1993年の秋に一緒にビジネスを計画し始め、1994年の2月に『Tokyo
Classified』の創刊号を発行しました。最初は一色で、たった4ページのものでした。内容はすべて個人広告。基本的には、いろんな物を買ったり
売ったりする広告です。アパートの案内や、友達を見つけたり、恋人を募集したり、仕事を見つけたりするためのものです。
「こんにちは、『Tokyo Classified』です。あなたのための雑誌です。世界に向けてあなたのメッセージを発信しませんか。売りたい、買いたい、出会いたい、パーティをしたいなど、ここで何でもできますよ」というのが私たちのメッセージでした。
「雑誌は読者のもので、読者が雑誌をつくる」と最初から考えていました。その頃は、メリーや僕のように日本に来た外国人にとって、インターネットのような双方向のメディアも本国のTV番組を流す衛星放送もありませんでしたから。
メリー: 外国の雑誌も非常に高価でした。私たち外国人は自国から切り離されていたのです。 国際電話も非常に高くて、私が両親に電話する時は、1分が350円〜400円かかったので、5分以内で終えるようにしていました。
マーク:
私たちは本当に孤立していたのです。日本はバブル景気で、ネオンがきらきら光り、面白い文化があって素晴らしいだろうと思って来たのですが、実際日本に来
て見ると、コミュニティにサポートシステムはほとんどありませんでした。ですので、日本で生活を始める人の助けになるようにと思ってこの雑誌を作りまし
た。
メリー: 企業からの派遣で日本に来た人達は、会社が面倒をみてくれますし、ある程度のシステムもありました。でも、そのレベルにいない人達には、誰かと知り合ったり、東京で何が起こっているのかを知ることはとても難しかったのです。
マーク:
90年代は地位の高い企業の駐在者と、旅行者として来日しやがて英語教師として日本に滞在する外国人がいました。しかし、バブルが終わった後は、たくさん
の新しい「中産階級」の外国人が日本に来ました。メリーや僕のような人達が来たのです。そして、日本に住みながら何かできることに気づきました。中産階級
のグループは大きくなり、他のグループは小さくなっていったのです。
雑誌の成長は、80年代及び90年代初めに日本に来た人達のコミュニティが成長していったことを示しています。彼らは自分達で生きていかなければなりませ
んでしたし、自分達で買物をしなければならなかったので、基本的な情報が必要でした。でも、時間が経つとともにもっといろんな事をして、娯楽も楽しみ、東
京や日本についてもっと知りたいと思うようになったのです。ですから、高地位の駐在者を対象にしていた『Weekender』が縮小していったのに比べ、
私たちの雑誌は伸びていきました。
―バブルがはじけた後、多くの外国企業が高級な駐在社員を日本に派遣しなくなったのは事実です。特に子供のいる駐在社員はインターナショナル・スクールなどの費用が会社にとって非常に高くつきましたから。
マーク:
同時に日本にたくさん来たのは私たちのような若い外国人でした。彼らは日本に魅力を感じて来たのです。数年後には、日本の生活に満足し、日本人のガールフ
レンドを見つけたり、日本の女性と結婚したり、日本でビジネスを始めたりして、日本に住み続けることになったのです。彼らは成長し続け、より良い仕事につ
くようになりました。子供を持ち、日本社会の一部となっていったのです。
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