黎明期の女性作家たち・その1
尾形明子
雑事にかまけてずいぶん長い間お休みしてしまいました。その間何人かの方々からメールを頂きました。お返事はお出ししましたが、気になったことがありました。70代の作家の方と20代の大学院生からのお便りで、「『青鞜』から女性の文学が始まったことがよくわかりました」と書かれていました。少し困ったなと思いました。確かに私自身『青鞜』について書いてきましたし、書く中で『青鞜』の意味を強調してきたようにも思います。でも『青鞜』は突然に生まれたわけではなく、「新しい女」たちが忽然と現れたわけではありません。明治になってから、『青鞜』創刊の明治44年まで、文学のジャンルでも何人もの女性たちの活躍がありました。そのひとりが、5千円札になった樋口一葉です。『青鞜』の女性たちや『女人芸術』の長谷川時雨ほどに明確ではなくても、それぞれの時代のオピニオン・リーダーとして文学を超えて活躍した女性たちです。
政治、社会の大きな変革は、女性たちにも様々な影響を及ぼします。明治に入り、それまで多くは「女大学」(貝原益軒)の「女は三界に家なし 生じては親に従い 嫁しては夫に従い、老いては子に従う」の教えの中にいた女性たちが、自らの声を上げるようになりました。 中島湘烟 清水紫琴 三宅花圃 木村曙 若松賎子 小金井喜美子、樋口一葉 田沢稲舟 北田薄氷 大塚楠緒子等々の女性作家が自己を語りだし、それは、さらなる波となって女性たちの間に広がっていきました。明治30年代には、治安警察法第5条「婦女子・禁治産者の政治参加を一切禁ずる」の改正を求めて、遠藤清ら女権運動家が請願運動を繰り広げています。明治44年9月、平塚らいてうによって創刊された「青鞜」は、こうした下準備がなされた中に生まれました。
いわば黎明期の女性たちを2回に分けて文学事典風に紹介することにします。深い暗闇の中、自らを発光体として困難な生を生きた女性たちを時に想像して下さいますように。
若松賎子[わかまつしずこ] (本名:嘉志子)
1864−1896 (元冶1年3月1日―明治29年2月10日)
会津若松藩士の長女。本名嘉志子。戊辰戦争で家を失い6歳で母も死去し、横浜豪商の山城屋番頭の大川甚兵衛の養女となります。ミス・ギダ―の塾(フェリス女学院)に入り、洗礼を受けました。卒業後は英語教師としてフェリスに18年間勤め、明治女学校の教頭だった巌本善治と結婚します。巌本から「あなたは薔薇の花のように美しい」という英詩を贈られたれた賎子は「花嫁のベールをとりて、とくと我を見給え。我は薔薇にあらず」と英詩を書き、「きちんと私を見てほしい。その上で私はあなたを生涯かけて愛します」と賎子は言います。対等の人間としての結婚でした。すでに結核を病んでいましたが、巌本善治が主筆を勤める「女学雑誌」に「イナック・アーデン物語」「忘れ形見」など主に翻訳を発表。バーネット夫人の「小公子」は口語体の名訳として知られています。
幼い日、私は母が愛読していた薄グリーンの表紙が付いた「小公子」を読んでもらっていたことを思い出します。自由でのびやかな子供の教育こそが将来の日本の基本であり、子供たちには健全で明るい家庭が必要というクリスチャンとしての信念から、日清戦争後、盛上がってきた国粋主義、国家による管理教育を批判し続けました。29年2月5日、明治女学校が焼失し、隣接していた校長宿舎も類焼。病勢が悪化して33歳の生涯を閉じました。
中島湘烟[なかじましょうえん] (本名:岸田俊子)
1868−1901 (文久3年12月5日―明治34年5月25日)
京都の呉服商の長女。神童の誉れ高く、明治12年15歳で宮中に出仕し皇后に「孟子」などの講義をしますが、若く平民出身ということでいじめられ、宮中勤めに嫌気がさして間もなく退出し、自由民権運動家にかかわるようになりました。
明治15年4月、大阪道頓堀で開かれた政談演説会で最初の演説「婦女の道」は、あでやかな容姿と「泉の涓々として流がるヽ如し」弁舌で大評判となり、各地で活躍しました。大津での演説「函入娘」が官史侮辱罪で投獄され、17年に上京し、星亨主宰の「自由の燈」に女性の手による最初の女権論「同胞姉妹に告ぐ」を寄稿しました。
妻を亡くした18歳年上の自由党副総裁の中島信行と自由結婚。信行の衆議院議長、イタリア公使、貴族院議員、男爵に序せられた経歴に添い、名流婦人として過ごしますが、その間もフェリス和英女学校の教壇に立ち、「女学雑誌」に小説「山間の名花」(「都の花」明治22・2)などを寄稿しました。夫に同行しイタリアで暮し、ヨーロッパ各地、アメリカに旅するなど、明治20年代最も世界を見聞した女性でした。女性史、歴史、文学史からも意義深い「湘烟日記」を残しています。ローマで結核に罹り、信行から2年遅れて37歳で死去しました。
辞世の句【薮入りに鳥渡ちょっとそこまで一人旅】
「同胞姉妹に告ぐ」(「自由の燈」明治17・5・18−6・18 10回連載)
嗚呼世の男らよ 汝等は口を開きぬれば改進と云ひ改革と云ふにあらずや 何とも独りこの同権の一点においては旧慣の慕ひぬるや 俗流のまヽに従ひぬるや 我が親しく愛しき姉よ妹よ 旧弊を改め習慣を破りて彼の心なき男らの迷ひの夢を打破り玉へや
清水紫琴[しみずしきん] (本名:トヨ 筆名に豊子、つゆ子)
1868−1933 (慶応4年1月1日―昭和8年7月31日)
小説家・評論家 岡山生まれ。京都府に出仕した父親に連れられて明治3年京都に移住します。父親は学校掛兼勧業掛、外国公使、イタリア皇族接待掛等を歴任しますが化学に通じ、ラムネ、硝子、写真術等々の実験製造に係わったといわれています。
京都府立第一高女小学師範諸礼科卒業(明治14)後、父親の勧めで結婚。不幸だったらしく、その過程で女権思想に目覚め、民権運動に係わるようになります。離婚後23年5月に上京し、女学雑誌社に入社。まもなく主筆兼編集責任者に抜擢され、最初の女性ジャーナリストとして人権問題と女子教育探訪を担当し「泣いて愛する姉妹に告ぐ」「当今女学生の覚悟如何」等毎号優れた論を展開し、小説「こわれ指輪」で注目されました。
自由民権家大井憲太郎と親しくなり子供を生みますが、同じく自由民権家で「妾の半生涯」の作者である景山(福田)英子が同時に大井の子を生んでいたことを知り、ショックで精神に異常をきたし運動から遠ざかりました。
やがて東京帝大農科大学(現・農学部)助手の兄の友人で助教授の古在由直(後・東京帝大総長)と出会い結婚します。古在は紫琴の過去のすべてを知った上で「最愛最親最敬」の人と言い、「余が有する敬愛の情とは、敢へて女性にのみ灌ぐべきに非ずして男性にも共に灌ぐところに御座候」と、対等な人間としての敬愛であることを強調しました。
明治20年代、こうした恋愛を貫いた男女がいたのですね。ただ古在は紫琴が執筆に夢中になることを喜ばず、そのため執筆はは古在の留学中に限定されました。実は私の知人に彼らの孫がいます。現在千葉大学教授で農学博士の古在豊樹氏になぜかしらねと聞いたら、きっと結婚以前に紫琴を取り巻いていた世界に妻が戻ってしまうようで怖かったのではないかなと言っていました。島崎藤村「破壊」に先行する作品として「移民学園」(明治32・8「文藝倶楽部」)が知られています。
代表作「こわれ指輪」は、日本で最初のフェミニズム小説です。女性の一人称による告白体で書かれています。父の命令で結婚した私は夫に女がいることに気付くのですが「女大学」の教育を受けたものとして我慢します。でも、やがて「不幸悲惨は決して女子の天命ではない」という女権論に目覚め、自分から離婚を申し出、「世間幾多の婦人達の不幸を救う」ことを決意します。石が外れた指輪を離婚記念として嵌め続け「士気を鼓舞し、勇気を増す媒なかだち」としたのでした。
三宅花圃[みやけかほ] (本名:龍子)
1868−1943 (明治元年12月23日―昭和18年7月18日)
小説家・随筆家 東京本所生まれ。幕末から明治にかけて外交官として活躍し元老院議官となった田辺太一(泥舟「日本外史」)の長女。中島歌子の萩の舎塾、明治女学校等に通い、明治22年お茶の水東京高等女学校を卒業。在学中に書いた「藪の鶯」で一躍有名になります。大家でありながら内実は苦しく、イギリス留学中に死去した兄の一周忌もままならないことを知った花圃が、当時大評判だった坪内逍遥の「当世書生気質」に刺激されて書いたもので、多額の印税を得て兄の法要を立派にはたしました。同じく萩の舎塾に通い、貧乏のどん底にいた樋口一葉が作家を志したのは、この作品の成功が原因です。明治25年雑誌「日本人」の主宰者三宅雪嶺と結婚。その後は歌人、随筆家として活躍しました。
「藪の鶯」(明治22・6 金港堂刊)日本最初の近代小説「浮雲」第1篇刊行と同じ時期に女性の手ではじめて書かれた近代小説。西洋かぶれした子爵篠原の娘で恋も生活も軽薄そのもの浜子を苦々しく思うイギリス帰りの婚約者勤は、伝統的な婦徳を守る美しくつつましい松島秀子に惹かれます。結婚しすべてを手にした秀子と自らの浮薄のためにすべてを失った浜子を対照させたこの作品は、、軽薄な西洋化批判から始まる、鹿鳴館後の国粋主義の風潮に重なります。但し、女性の生き方を「生意気にならぬ範囲の知識をもち、自分の責任で経済的にも自立した生活の確立をはかるところまでは求めず」として、あくまで伝統的常識をでることはありませんでした。
2005年1月
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