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村上むつ子
(ジャーナリスト)東京生まれ。上智大学、コロンビア大学ジャーナリズム大学院卒業...[詳しいプロフィール]

第10回 名取美和さん
タイのHIV感染の子どもたちの「メー(母さん)美和」

村上むつ子

名取美和さんタイ北部の都市、チェンマイから車で30分程の郊外のナンプレー村に、「バーンロムサイ(ban rom sai)」がある。郊外とはいっても、見渡すと野原や森の間にたまに民家があったり、村の人が足をとめる食堂があったりする、のんびりとしたタイの田舎の風景だ。

舗装道路から小道にはいってしばらくいくと、右手に鉄の格子の門があり、そこに拡がる八千平方メートルの敷地に、高床式の木造の建物やオープンエアの棟が点在している。芝生のあいだにはガジュマルやジャスミンの木々が見え、タイの美しい花々や果実も風景に色を添える。

いろんな人がたまたま一緒になった家族として、助け合って暮している

「バーンロムサイ」はHIV(エイズウイルス)に母子感染している子供達のホームだ。ここに乳幼児から12歳までの男女半々の子供達27人が暮している。1999年11月の設立だから、まだ4年数カ月の施設だ。常駐スタッフはタイ人が18人、日本人が3人、そしてその時々でタイや日本のボランティアが加わる。総勢50人ほどの所帯をまとめているのが、この施設の代表者の名取美和さん(57歳)だ。

「わたくし、孤児院を経営しているというつもりではないんです」と彼女は言う。「病気だろうが、健康だろうが、日本人であろうが、タイ人であろうが、いろんな人がたまたま一緒になった家族として、助け合って暮している、それが自然でしょ?」

彼女自身にとっても、いまの仕事や暮しは人生の実りの時でもある。
「いままで人生の50年間、自分のため、自分と家族のために生きてきた、自分の喜びや楽しみを求めてきた。でもいまは自分が楽しいと思えることをやって、その事がひとの役にたち、喜びとなってもどってくる」のだという。短い髪に、気持ちが良さそうなシンプルな木綿の衣服を身につけ、化粧っけのない面だち―その風貌にも深い満足感が感じられる。

彼女は、福祉関係者でもなければ、もともとタイとの関わりが深いわけでもない。かつて、都会でバリバリ仕事をしていた彼女や、海外に頻繁に行き来する華やかな、また自由奔放なライフスタイルを知っていた友人たちは、彼女が今の暮しを選択したのに驚いたそうだ。

名取さんは終戦直後の1946年に南京の収容所で生まれた。父は日本のルポルタージュ写真のパイオニアの名取洋之助、妻をつれて赴任していた中国で敗戦を迎えたのだった。日本に引き上げてきてからも、祖父も父も戦前から海外に留学したという西洋の香りがただよう、恵まれた家庭に育ち、父の尽力で慶應高校を中退して、16歳でドイツに留学し、デザインを学んだ。

20代のはじめに、結婚、出産、離婚、2回目の結婚、離婚をまたたく間にやってのけた。その後は日本とヨーロッパを行き来しながら、堪能な英語やドイツ語を駆使して、通訳や広告コーディネイターの仕事や日本の雑誌の取材や撮影をこなした。そして、80年代、日本がバブル景気に酔っているころは、六本木のアクシスビルの一角で西洋骨董の店、「ベルエタージュ」を経営、真っ赤なベンツのオープンカーを乗り回し、都会のオシャレなパーティーにくり出す日々を送った。

しかし、90年をすぎるころには店も友人に引き取ってもらい、骨董買い付けをしながらヨーロッパを転々とする。娘も成長し、職業人となって日本にいる。自分は40代の半ばで、新たな生活を求めていた。幸い、人に頼らず、自分で立つというのは自然に身についていた。

無邪気で大胆、行動的だが繊細、無鉄砲で正直―名取さんを知る人はいろいろな言葉で彼女を語る。日本の同年輩の女性たちからみると、自由奔放、自分勝手に生きているようにも見える。彼女自身は「飽きっぽく、気まぐれ、落ち着かない・・・」ともいうが、人生のその時その時で本当の満足をもとめる彼女の真摯さは徹底している。年を重ね、振り返ってみれば「精進」とも思える長い経過のなかで、自分にとって何が大切なのか、何がしたいのか手探りで求めている姿がある。50代に入るころ、余分なものを削ぎおとし、暮しはシンプルになり、全財産はスーツケース2つにおさまってしまうようになった。場所は日本でなくても、どこでも構わない、自分の得意な刺繍や小物つくり、テキスタイルを中心に仕事をして生計をたてたいと思うようになっていた。

タイとの出会い

たまたまチェンマイを訪れたのはこんな頃である。当初は自分の仕事でつかう布などを求めて向った旅だったが、タイのゆったりとした時間の流れが気に入り、この辺りで暮してもいいという気持ちもそだっていた。しかし、たまたまそこにいた旧知のドイツ人医師に連れられ病院やHIV感染者を訪れていくうちに、タイのHIV感染の現状を知ることになる。

タイは東南アジアでも、HIV感染や、それが発症してしまったエイズの問題が深刻だ。性産業などを通しておこる性感染、それが家庭に持ち込まれ夫婦で感染し、その子ども母親から感染してしまう母子感染―この悪循環が感染者やエイズ患者をつくり出している。

90年代当初は新規感染者が年間で14万3000人、20年以内にタイの人口(6,400万人)のほぼ十分の一がエイズで死ぬ可能性があるともいわれた。当時のタイのリーダー、アナン首相は売春と麻薬の回し打ち、性産業への子どもの人身売買が原因であることを公的に認め、それ以上の拡がりを防ぐため、コンドームの使用を国家的にとりくんだ。首相みずからが音頭をとり、街頭でメディアで訴えたため、『ミスター・コンドーム』とのあだ名までついた。「やるも地獄、やらぬも地獄。エイズ禍は見て見ぬふりをした方が得策、と考えられる問題だった」と元首相は最近、語ったという。

タイ政府のエイズ制圧キャンペーン政策は、治療だけでなく、啓蒙、予防にまで範囲をひろげ、わかりやすい言葉で一般庶民に広めたのが効を奏したと言われる。当時、2010年までにタイのHIV感染者数は1000万人に達するとみられていたが、現在、同予想は約100万人にまで減っている。エイズ対応の「優等生」といわれる所以だ。

それでも、タイには現在100万を越すHIV感染者やエイズ患者がいて(母子感染の子供は7万人以上といわれ、多くは5歳を迎えるまえに亡くなる)、チェンマイのある北部は、タイの中でも感染者、患者が多い地域である。

ホームの開設、そして現在の姿へ

名取さんも、当初は、多くの日本人同様、エイズについての知識は断片的で、チェンマイで患者に触れたり、一緒に食事をしたりして感染しないかと不安もあった。(HIVは、性交渉による感染、血液感染、母子感染で広まるが、空気や、汗、だ液ではうつらない。)が、ものつくりの仕事を手伝ってもらい、親しくなったタイ女性がエイズで亡くなり、母子感染をした孤児たちの存在を知るにつけ、ジッとしていられなくなり、ホーム運営への道を走り出すことになる。

最初は日本のNPO「子供地球基金」の委託を受けての開設だった。1999年11月に、「キッズ アースホーム・タイランド」という施設がオープンした。イタリアの服飾メーカー「ジョルジオ・アルマーニ ジャパン」がアジアのHIV感染者のために使ってほしい、と多額の寄付を申し出たのがきっかけだ。名取さんは、チェンマイ郊外に荒れた果樹園だった土地を見つけ、開墾し、建物をたて、スタッフを整え、てんやわんやのなか10人の子供を迎えるところまでこぎつけた。

開設までのお手伝いというつもりだったが、始まってみるとそこでほうり出すわけにはいかなくなっていた。子供達の衣食住や衛生管理に責任をもち、ペースの違う現地スタッフとのコミュニケーションに悩み、子供たちの治療に関わってくれる医者をさがし、学童年齢の子供を受け入れてくれる学校をみつける―待ったなしの仕事が山のようにあった。子どもへの病名告知の問題、タイ社会の感染児童への偏見など、いくら奮闘しても解決しない心の痛む問題も次々にでてくる。

何よりもつらく、厳しい現実は幼い子どもたちが次々に亡くなっていくことだった。開所して半年もしないうちに2歳の子が、2ヶ月後には四歳の女の子が痩せ細って亡くなり、1年もすると6人がその後に続いた。いままでに合計10人の子どもが天に召されていった。しかし、世界でも有効とされる「カクテル療法」と呼ばれる多剤併用療法を受け始めると明らかに発症が少なくなり、事態はようやく好転してきた。

「この1年4か月、誰も死んでいないんです!」と、名取さんの顔がほころぶ。子どもたちも、自分達の「将来」の夢について語りはじめ、大学に行くという子も出てきた。普通の生活、普通の意識に着実に近づいてきている。

施設の運営に本腰をいれてしばらくすると、名取さんは自分が納得のいく運営方法が見えてきた。NPOの東京本部に説明をし、お伺いをたて、認可を得てから動くというやり方は、現地のニーズに合わなかったり、時間がかかりすぎた。もっと自由な発想で一番動きやすい運営をしたい、運営資金を寄付にたよっているだけでなく、一部でも自主的に捻出したい、と彼女が思い始めるのにたいして時間はかからなかった。

ガジュマルの木の下の家

2001年には、施設は「子供地球基金」から独立し、あらたに「バーンロムサイ(タイ語で「ガジュマルの木の下の家」の意)」という名前で再出発した。支援組織も新たに作り、アルマーニ社も支援を続けてくれることになった。

彼女の施設運営は確かに一風変わっているところがある。バスに全員のりこませ、南部のビーチにくりだす。町なかのレストランに「家族」ででかけ、外食としゃれこむ。映画鑑賞にもいく。敷地内の建物も木造の伝統的なスタイルでたて、新建材やプラステックは使わない。テレビも、最近、どうしても、という寄付があるまでは御法度だった。子どもたちも皆、木綿素材のさっぱりとした衣服で、キャラクタープリントや化繊は着せない。

「だって、家族なのですから、きちんと上等のものを着せたいでしょ?」と、彼女は別に特別のこととは思っていない。

彼女は施設長をすることを生計のための仕事にはせず、同じ敷地にある個人住居で予定通り、インテリア小物の製作を続けて生活収入を得ている。個人の時間、個人の精神的なスペースを持ちながら、ボランティアとしてバーンロムサイを運営するというバランスが気に入っている。また、それを誇りにも思っている。

彼女の美的感覚に満ちた発案で、子どもたちは若いアーティストの手ほどきを受けて、絵画や陶芸の創作活動を行っている。バーンロムサイも、スタッフが布や糸を敷地内の庭でとれるマンゴーやラムヤイなどの天然染料で染める染織も始めている。山岳民族カレン族の過疎の村と協力して、オーガニックコットンを生産してもらい、それで織った布でオリジナル製品をつくる、という新プロジェクトも生まれた。

2003年12月には、名取さんの古巣、東京の六本木のアクシスビルにあるギャラリーで、3回目の「UNDER THE TREE 展」がひらかれた。子どもたちの絵画や陶芸に加え、バーンロムサイの製品が展示され、盛況のうちにほぼ完売した。

「子どもたちに創造する喜びを通して生きるたのしさを伝えたい、ものづくりによって収入の道を開き、彼らの将来の自立につなげたい」という彼女の意志が基礎になっている。

「あなたはどうするの?」

日本を遠く離れて活動する名取さんには、日本にいてはなかなか見えないことが見えているようだ。

「日本の女のひとたち、とくに50歳過ぎの女性たちに言いたいのは、彼らにはとても能力があって、何かの役にたてる、生きがいも意味もある活動ができるということ」。行政の男性エリートは規制ばかりで、時にはごう慢だ。彼らにはできないことを、女性はできる、と彼女は確信をもっている。

「本来ならああいう社会のリーダーは社会全体のためにいいことをやってもいいじゃないですか?でも昭和ヒトケタの、あのおじさんたちは自分の小さい世界でしかものを見ない。国のやっていることの、三分の一でもNPOにゆだね、やる気のある女性にやらせたらいい。すごく世の中変わると思います。」

日本人は、とくに若者も女性たちも、自分が好きになれるような人生をおくれないような気が彼女はしている。自分が嫌なので、自分の生活が不満なので代償に「癒し」を求め、「別の存在に変身したい」のではないか。女性もチャンスがあれば能力を発揮できるのに、まず、自分の能力を信じない、行動を起こさないのではもったいないではないか、という印象をもつ。

名取さんの活動をみて、うらやましがったり、感心したりする同年輩の女性も沢山、日本にいる。でも、自分にはできないと思っているひとがおおい。その人たちに、名取さんは「あなたは、どうするんですか?」と言いたい、という。国がグローバル化だとかなんだといっても、個人が変わらなければ何も動かないのだから。

彼女が思いがけず発揮している組織運営能力について、何が一番大切かと尋ねてみた。

「それは、フレキシブルに物事に対応できることですね」と、迷う事なく返事が返ってきた。「日々、状況が変わるなか、一つのやり方がダメだとわかったら、執着せず、他の方法を探すという頭の柔らかさが必要」だ。そういえば、確か、似たようなことをアメリカの大企業の女性経営者も指摘していた。

名取さんの現在の活動や生き方は、彼女のパーソナリティにより辿り着いた部分もおおきいだろう。しかし、チェンマイに彼女を訪れて、お話を伺い、そのエネルギーや真直ぐなものの考え方に触れてみると、これは彼女だからの例外的な物語ではないような気もする。

たまたま、彼女は自分の人生のコースでここに辿り着いたが、日本にいる同年配の、あるいはもっと若い女性たちにも同じ様な希求があるのではないだろうか?自分のためだけでなく、自分の家族のためでなく、生きがいのある活動をしたい、自分の価値が感じられ、人の役にたつような事がしたい、という声が。そういう意味では、名取さんは一つのモデルである。彼女と同じことをするわけでなくとも、そんな「希求」を実現する選択肢はある、ということを言ってくれているような気がする。

BAN ROM SAI ホームページ [http://www.banromsai.gr.jp]

2004年2月


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