「市民」であることを問い続ける日系米国人−スミ・コイデの生き方
松信章子
最近、メディアでよく報道されるのは、移民で成り立ってきたアメリカ社会がその移民に対して寛容性を失っているということ。2001年の9.11の同時多発テロ以来、テロにおびえるアメリカは「反テロ愛国法」を成立させ、特にアラブ系やイスラム圏諸国出身の市民や移民に対し、本国への強制送還や通常の司法手続きなしの逮捕などの強権発動を行っていると伝えられています。新聞はブルックリンのパキスタン人町、「リトル・パキスタン」で推定12万人いたといわれる住民の多くが嫌がらせや不当逮捕を恐れて、カナダなどに逃げ出し、街は灯が消えてしまったと報じています。
このような人種差別・人権無視の風潮に異議を申し立てた人びとの中に、一人の日系米国人がいます。今年73歳になるドクター・スミ・コイデです。コイデさんは、1999年に退職するまで、ニューヨークのアルバート・アインシュタイン大学病院で臨床病理学の教授でした。退職後はその功績により名誉教授の称号を得ています。在職中から、コイデさんは女性や青少年支援など、さまざまなコミュニティー活動に携わって来ました。現在は1980年からメンバーである日系アメリカ人市民同盟(Japanese American Citizens League)のニューヨーク地域のプレジデントをつとめています。コイデさんは、昨今のモスレムの人たちに対する差別的な扱いに対し、政府に抗議文を送ったり、デモに参加したりして、人権擁護の運動を行ってきました。そして、このほど2003年度の「女性の殿堂」に選ばれる栄誉を得ました。「女性の殿堂」
<http://www.westchestergov.com/women/hof2003.htm>はニューヨーク州ウェストチェスター郡が社会貢献で功績のあった同郡の女性を表彰するための賞で、1985年の設立以来、アジア系米国人が選ばれたのは始めてのことです。
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| 自宅でくつろぐドクタースミ・コイデ
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この夏、ウェストチェスター郡、ドブズフェリーにある緑に囲まれた閑静なお宅でスミ・コイデさんに、お目にかかる折がありました。尊敬される立派な職業を持つかたわら、何が活発な市民活動のエネルギーとなったのか、そして日本風に言えば、功なり名とげた後、孫の成長を楽しみつつ悠悠自適の生活が許される境遇にありながら、何がコイデさんをモスレムの人権擁護の活動に走らせる原動力だったのか、それを知りたいと思ったのです。
コイデさんは日系の二世です。岡山出身のコイデさんの父親は、20世紀初頭、1907年にアメリカに渡り、最初は製材所で働いていたそうですが、大恐慌で職を失い、ワシントン州のシアトルに近い地域で小作農民をしていました。当時、日系人は土地を所有することが許されていなかったのです。そして日本の真珠湾攻撃に始まる太平洋戦争が勃発。アメリカ政府は西部諸州に住む12万人にのぼる日系人を、合法的移民であろうが米国市民であろうがお構いなく、一斉に敵性移民として強制立ち退きを命じ、10箇所の収容所に送りこみました。コイデさん、12歳の時です。ちなみにハワイや、アメリカ東部の日系人たちに対する取り扱いは、西部諸州の日系人に対するものほど苛酷ではなく、全員が強制収容所で隔離されたわけではありませんでした。
いずれにしても、コイデさんと家族は、その後3年間の長きにわたって、家具もほとんどない一部屋だけの粗末な収容所生活を送ることになります。最初はシアトル郊外のバラック、その後は、アイダホ州南部のミニドカ収容所で。夏はひどく暑く、冬はとても寒く、「せめて北風さえ止んでくれたら」と、子供だったコイデさんは願ったそうです。アメリカに夢を求めてわたってきた両親は夢破れ、全てを失い、打ちのめされていました。
戦争終結と共にコイデさん家族の人生は劇的に変化します。帰る家もないまま、コイデさんの一家はクエーカー教徒の人達の助けを得て、東部のフィラデルフィアに移住します。クエーカー教徒は戦争に反対し、敵味方なく困っている人たちを助ける平和主義者なのです。フィラデルフィアの学校で、コイデさんは「ジャップ」などと侮蔑的な言葉で呼ばれたり、嫌な思いをしたことは一度もなく、多くの日系人はクエーカー教徒の人達にとても親切に扱われたそうです。戦後間もないことを思うと、感動的な話です。ちなみに、現在の天皇陛下が幼かった頃、家庭教師だったバイニング夫人もクエーカー教徒で、偶然にも長年コイデ夫妻が住んでいる家のそばに住んでいたとか。大きな歴史の裏の小さな歴史もまた興味深いものです。
コイデさんは「人を助ける仕事をしたい」と思って、医学の道を選びました。「医学は人が平等であることを教えてくれる」とコイデさんは言います。コイデさんの話を伺うと、彼女の人生に決定的な影響を与えた人びとや経験がいくつかあることが分かります。「人を助けたい」という彼女の強い気持には自らも助けてもらったクエーカーの人達の影響が強くあるのはもちろんのことでしょう。子供の頃の屈辱的な体験にもかかわらず、コイデさんは、「自分は人からたくさんのことを与えられた」と思っています。多分、コイデさんには人から与えられるものを感じ取り、感謝する能力もたくさん備わっているのでしょう。
クエーカー教徒とともに、コイデさんの母親もまた、彼女に大きな影響を与えました。コイデさんの母親、アサ・ウエダさんが歩んだ道を聞くと、あの時代の日本にもこのような勇気がある女性がいたのだということに驚かされます。アサさんも岡山出身です。意に添わない人と結婚させられそうになることに反撥し、家を出て働きはじめますが、味わうのは女性差別の壁ばかり。そんな時、先に移住して、花嫁を求めて日本に帰っていた男性と出会い結婚し、1921年に渡米します。後にコイデさんの父親になった人です。アサさんにとって、アメリカに渡ると言うことは、差別や束縛からの自由を意味しました。1920年代の女性解放の動きに、アサさんも影響を受けていた一人なのです。アサさんは、教育の偉大さを信じていました。コイデさんが大学に通っていた頃は、共学で学ぶ女性はほんの4%に過ぎなかったそうです。アメリカにおいても、当時はひととおりの教育を受けたら女性は結婚するものだという風潮が一般的でしたが、進歩的なアサさんは一度も結婚というプレッシャーを娘に与えたこともなく、彼女が学問の道に進むのを常に励まし続けたそうです。揺るぎない母親の励ましは、娘に自信と確信を与えるものだということが分かります。家が貧しかったコイデさんは、しっかりと現実を見据え、アルバイトをしながら生活資金を得て勉学に励み、奨学金で大学に通い、その後は、着実にキャリアの道を築いて行きました。コイデさんのご主人のサムさんも医師で、常にコイデさんの力になってくれたそうです。後年、コイデさんが活発にコミュニティー活動に参加するようになったのは、彼女の母親たちの時代は、日系人にはなりたくてもアメリカ社会のコミュニティーの一員にはなりきれなかったという無念の思いもその裏にあったようです。コミュニティー活動の中から、コイデさんは社会的な問題に目を向け始めていきました。
そして何と言ってもコイデさんの原体験は、法の保護もないままの財産没収、強制立ち退き、収容所送りという苛酷な経験といってもよいでしょう。戦時中とはいえ、アメリカ政府が行った日系人に対する不当な差別に異議の声をあげ始めたのは、コイデさんのように、幼い頃、収容所生活を経験した二世たちでした。そして、コイデさんが故郷の村から強制立ち退きを強いられてから、46年の長い年月がたった1988年に、アメリカ政府は、日系人に対する差別的な行為に関して公式に謝罪しました。日系人を強制収容し隔離することが「軍事的に必要」であり、また「日系移民を保護する必要」があったという、その当時挙げられた理由は真実でなかったと認めたのです。
すでに、往時の日系人に対する不当な差別にもう怒りの気持ちはないとはいえ、コイデさんを人権擁護の運動に突き動かすものは彼女の信念です。「人は皆、同じような欲求や希望を持っている。自分の欲求や希望は尊重されるべきだし、同様に他人の欲求や希望も絶対に尊重すべきだ」と彼女は言います。それだからこそ、今、昔の日系人と同様に、国家の安全という大義のもと、イスラム圏の出身というだけの理由で差別を受けている人たちの人権擁護に、コイデさんは奔走しているのです。そういうコイデさんに、「女性の殿堂」入りという名誉を与えたのもまたアメリカ社会であり、コイデさんに「人を助けることの尊さ」を教えてくれたのも、また、多くの人の助けを得て自分の選んだ医学の道で成功を収められたのも、アメリカ社会であることを考えると、この社会の奥深さを見過ごしてはいけないのだということを教えられます。9.11から二年、移民への寛容性を失ったアメリカ社会で、イスラム圏出身の人たちが不当に扱われていると感じるアメリカ人は59%にのぼると、メディアは伝えています。コイデさんのように、公正と原則を重んじる人たちの活動が、この数字に貢献しているのに違いありません。
最後にコイデさんから、日本の後輩へのメッセージをお伝えします。「自分が与えられてきたものを、社会に還元してほしい。後輩に伝えてほしい。アジアの女性たちは、優秀な人がたくさんいる。もっと、社会やコミュニティーに参加して欲しい」というのが、73才の社会活動家、スミ・コイデさんが後輩に伝える言葉です。スミ・コイデさんの生き方から、私たちも与えてもらうものはたくさんあるようです。
2003年10月
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